<潜在意識の活用>3.20

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ある日突然、幼い子どもは何を「生きがい」にして生きているのだろうか、という疑問が私の中にわきました(幼い子とは小学生以下、くらいで考えてください)。

そう考えていたら、私なりの推論が浮かびました。

子どもは、もしかしたら「ほめられたくて」生きているのではないか、と。

「生きがい」が大げさすぎるなら、「何かをするための元気、エネルギー。その源」 と言いかえてもいいかもしれません。

幼い子どもは、「誰かにほめられたくて」生きているのではないでしょうか。

その「誰か」とは、その子によっては親だったり、おじいちゃん・おばあちゃんであったり、学校の先生であったり、あるいは塾の先生であるのでしょう。

基本的には信頼関係にある人です。

そういう人たちから「すごい」「よくやったね」と言われると、子どもは本当にうれしそうな顔をします。

そしてさらにやる気になる。

ほめるとどんどんやっていく。

やればやるほど、すごい才能と集中力を示す。

子どもは「ほめられたくて」「ほめられたくて」仕方がないみたいです。

ひるがえって考えます。

では、中学生や高校生 は….。

自分自身の興味や方向性が出てはくるものの、陸上競技をやるにしても絵画をやるにしても、誰もほめてくれなければたぶん早い段階で諦めてしまうことでしょう。

道を選んだのは本人でも、それを続けるエネルギーは、まわりの人の反応によるように思います。

青春期には、「ほめられたい人」(相手)が異性になる。

ある人と恋愛をする、ということは、その「特別な人」「特定の人」から「ほめられたい」ということなのかもしれません。

そういう人を確保することが「恋愛」というものの本質だとしたら……。

結婚し、家庭を持っても、妻はいつも夫にほめられたいと思い、夫も妻にほめられたいと思っているはずです。

そういう人を選んで結婚したのですから。

妻は「料理がおいしい」と言われれば結婚して何年たっていてもうれしいし、夫も「日曜大工がこんなに上手だとは思わなかった」と言われれば、どんどんつくってしまおうと思うでしょう。

「恋愛」や「結婚」の本質が、「好き」という概念よりも「この人からほめられたい」という概念に近いものであることに気づけば、結婚生活の中で何を続けていくべきかがわかります。

「好き」「愛してる」と言い続けることも素敵ですが、それが言いにくい日本の夫婦の場合は、「ほめる」ということで、互いを選んだことの本質をずっと確認し続け、維持できるような気がします。

「仕事の場でも、人はやはり「ほめられたい」のではないでしょうか。

私なども単純ですから、編集部から「よい原稿でした」などとほめられると、「次にはもっと『すごい』と言われたい」と思い、さらに元気とやる気が出て、調べものにも熱が入ります。

仕事場で、「この上司からほめられたい」と思う部下がいてくれたら、その上司 はそれだけで大きな幸せを得ているように思います。

多くの部下からそう思われる人だったら、部下を一度も叱りつけることなしに、相当な業績を残すことでしょう。

個人的なつき合いや人間関係でも、どんな人も常にほめられたいのだ、ということをわかって接したら、ずいぶん違うものになりそうです。

「今日の服はよく似合って素敵」とか「ネクタイがいい趣味」とか「歩き方がはつらつとしている」とか「今日は楽しそう」とか、本当にそう思ったことは遠慮なく口にしてほめるというのはどうでしょう。

人は、何歳になっても、どんな立場でも、きっと誰かにほめられたくて生きているのです。

大人の場合は「ほめる」という表現より「評価する」「認める」という言葉のほうが適切な気はしますが、根源的には同じものでしょう。

ただし、本当はそう思っていないのにお世辞でほめるのは逆効果。

言葉には「本当にそう思っている」場合にはエネルギーが必ず宿りますが、そうでなければ何のエネルギーもなく、むなしく響くだけだからです。

結局、人間関係には「この人にほめられたい」という人になれるかどうか、ということも大きく関わってくるという気がします。

 

『小林正観さんの 人生のシナリオを輝かせる言葉』主婦の友社

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