「ポーランド国民は日本に対し、最も深き尊敬、最も深き感恩、最も温かき友情、愛情を持っていることを告げたい。我らはいつまでも、日本の恩を忘れない」
これはポーランド人のユゼフ・ヤクブケヴィチの言葉です。
遠い東ヨーロッパの国・ポーランドと日本に、一体どんなつながりがあるのか?
ポーランドの首都ワルシャワからから東におよそ7,500km。冬には氷点下70℃を記録する場所もある酷寒の地、極東付近のシベリア。ここに19世紀から20世紀初頭にかけて、ロシアによって流刑にされたポーランド人の家族、15万人から20万人が劣悪な環境下で暮らしていました。
難民たちは暖をとるために燃やせるものはすべて燃やし、脱出の頼みの綱であるはずの鉄道の枕木(まくらぎ)すら燃やさざるを得ず、それが尽きると次々に凍死していったといいます。脱出を図った600人のポーランド人婦女子を乗せた列車が燃料不足で立ち往生し、全員が凍死するという痛ましい事件もありました。
このあまりに悲惨な状況を見かねて、ウラジオストク在住のポーランド人たちが立ち上がり、1919年(大正8)に「ポーランド救済委員会」を設立します。会長にはアンナ・ビェルケヴィチ女史(42歳)が、副会長に記事冒頭の「ポーランド国民は日本に対し、最も深き尊敬~」の言葉を残した医師ユゼフ・ヤクブケヴィチ(27歳)が就任しました。
当時、シベリアにはアメリカ、イギリス、フランス、イタリア、そして日本が出兵していました(シベリア出兵)。ロシア帝国時代に諸外国から負った借金を踏み倒し、新たに社会主義国家を目指すと主張する革命政府を強く警戒したからです。アンナらは出兵しているアメリカをはじめ、欧米諸国に働きかけ、孤児たちの窮状を救ってくれるよう嘆願しました。
万策尽きたアンナは、日本に嘆願することにします。それまでポーランドと日本はあまり縁がなく、江戸時代にポーランド人神父が殉教したという古い記録から「キリスト教徒を弾圧する野蛮な国だ」という意見がありました。一方で日露戦争の際、やむなくロシア軍に加わっていたポーランド人捕虜を、日本が厚遇してくれたという記憶もあったようです。いずれにせよ、もはや頼みの綱は日本のみ。アンナは日本に赴き、外務省を訪れます。大正9年(1920)6月18日のことでした。
アンナの悲痛な訴えを聞いた当時の日本政府、外務省は深く同情します。そして日本政府は、すぐに孤児救済事業を日本赤十字社に要請しました。
「本件は国交上並びに人道上まことに重要な事件にして、救援の必要を認め候(そうろう)につき、本社において児童たちを収容して給養いたすべく候」
救済の受諾表明でした。ポーランド救済委員会の会長アンナ・ビェルケヴィチが来日してから17日目のことで、異例の早さでの決定です。アンナは驚喜して、この朗報をただちにウラジオストクに持ち帰ります。こうして孤児救出作戦が始まることになりました。
しかし、大正10年4月、東京で腸チフスが流行し、孤児たちも22人が罹患(りかん)してしまいます。この時、医師も看護婦も昼夜の別なく、つききりで看護しました。
孤児たちが東京に来てしばらくのちに、貞明(ていめい)皇后(大正天皇の皇后)が、福田会に隣接する日赤病院に行啓(ぎょうけい)されました。貞明皇后は孤児たちの境遇を憐(あわ)れみ、それまでに多額のお菓子料を下賜(かし)されています。貞明皇后は子供たちを側近くに召され、4歳になる愛らしい女の子ゲノヴェハの髪を何度もなでられました。
ゲノヴェハの父親は貴族でしたが、シベリアで赤軍に捕えられ、それを見た母親はその場で遺書を書き、自殺。幼いゲノヴェハは4日間、木の実を食べながらさまよっていたところを、救済委員会に保護されます。体調を崩していたため日赤病院に入院し、数日前に退院したばかりでした。
ゲノヴェハの境遇を知った貞明皇后は涙をたたえられ、こうお言葉をかけられました。
「ゲノヴェハさん、あなたは一人ではありませんよ。あなたがここに来られたのは、あなたのお父様やお母様がわが身を犠牲にしてお守りくださったからなのですよ。だから一所懸命に生きていくのです。命を大切にして、健やかに成長するのですよ。それがあなたを守ってくださったご家族と、この病院の方々の願いなのですよ」
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