先々月、夫婦でバリ島とベトナム、タイに行ってきました。
というのは、インドネシアの独立のために、大東亜戦争(第2次世界大戦)終戦後も日本に戻らず、インドネシアで戦った日本人がいたことを知った時、いつかお参りに行ってみたいと思っていたので、今回それを実行してきました。
バリ島の中部に位置するマルガ英雄墓地には、独立戦争に参加し戦死した兵士1,372名の墓があり、その中に11名の元日本兵の墓があります。
地元の人たちによってきれいに整備されたお墓に眠っている日本兵の墓石には、漢字で名前、年齢、出身地が刻まれていていました。
「サムライ、バリに殉す」の本の中に紹介されている11名の方々のお墓をひとつづつ回り、お参りをしてきました。
実は、前フォーエバー本社近くの青松寺には、インドネシア独立後初の大統領になったスカルノ氏から送られた大きな石碑があり、
「市来龍夫君と吉住留五郎君へ
独立は一民族のものならず 全人類のものなり
1958年2月15日 東京にて スカルノ」
という言葉が刻まれています。
17世紀頃、アジアの国々は欧米列強の植民地にされ、インドネシアもオランダの植民地となりました。
それは約3世紀半に亘って続き、この間、インドネシアはオランダによる圧迫、収奪、搾取に苦しめられました。
そんなオランダを駆逐したのが日本でした。
第2次世界大戦中、インドネシアに上陸した日本は、僅か10日足らずでオランダを追い払って新たな軍政を布きます。
インドネシアの人々は驚嘆と感謝を持って迎えました。
日本は、将来のインドネシアの独立を見越し、オランダ語の使用禁止とインドネシア語の普及、郷土防衛義勇軍の設立と軍事教練の実施、インドネシア人の高級官吏への登用と、社会基盤の整備に努めました。
日本が戦争に敗れた2日後、大統領に就任したスカルノはインドネシアの独立宣言を行います。
ところが、再びインドネシアを植民地支配すべくオランダがイギリスと一緒になってインドネシアに侵攻してきました。インドネシア独立戦争に始まりです。
しかし、3年半に及ぶ日本の軍政により、インドネシア人は、これまでのような「従順な羊」ではありませんでした。オランダに敢然と対峙したのです。
この時、残留日本兵の多くがインドネシアの独立のために戦いました。石碑にあった市来龍夫氏、吉住留五郎氏もそうです。
市来氏は熊本県人で22歳の時にインドネシアへ。
「日蘭商業新聞」記者を経て、陸軍第16軍宣伝班員となり、オランダから危険人物としてマークされながらも、インドネシアの独立派と親交を温め、日本が敗戦した後も、そのままインドネシアに残り、オランダとの戦闘中に42歳で戦死しています。
吉住氏は山形県人で、市来と同じくインドネシアに渡り「日蘭商業新聞」記者となり、その際、市来と知り合いました。オランダからの独立を目指すインドネシアの人々と一緒になって独立運動に挺身し、途中、オランダからの拷問に苦しみながらも、敵地工作に当たり、同じくインドネシア独立戦争に身を投じて、37歳の若さで病死しました。
インドネシアは親日国として知られていますが、そこには、私たちの先人の血と汗の努力が存在することも忘れてはなりません。
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